「当たり前」を疑ったあとに、残るもの
「わたしって、何のために生きているんだろう……」
ときどき、であれば、まだ良い。
頻繁に生ずるようになると、
それは、辛い「問い」になります。
「わたしって、何のために生きているんだろう……」
いわゆる「しゅふ」と呼ばれる
立ち位置に立つことで、
はじめて分かることがあります。
家族の暮らし、社会生活という表舞台の、
「しゅふ(主婦・主夫)」という
楽屋担当は完全に黒子なのだということです。
くろこ、くろご。
それは、歌舞伎などの舞台上で、
黒い衣服を着て、役者をサポートする人のこと。
「表に出ないで物事を処理する人」を指す言葉。
サポーター。
もちろん自分が自分自身の黒子になることもあります。
ひとり暮らしならば大抵そうです。
でも実家暮らしのときはどうだったでしょう?
「しゅふ」であった「お母さん」に、
黒子を押し付けたりしていませんでしたか?
じつのところ、わたしには、
そんなことが「当たり前」だった時代も、
ありました。
遠い遠い昔。
そんな自分自身が
「黒子」になったのだと、
初めて自覚した瞬間の衝撃も、
もう昔の話ですが、
生なましく覚えています。
まだまだサポートされていたかった、わたしが、
人のサポートをしなければならないという、驚き。
驚いたまま
一度走り出してしまった生活は止められず、
それはあの、
スポーツジムによくあるランニングマシンの、
コントロールの効かなくなった機械の上を、
一心に走り続けるようなものでした。
「わたしって、何のために生きているんだろう……」
平坦かと思っていれば、勝手に傾斜がついて、
緩急がいじられ、
疲れ果て、何が何だかわからなくなる。
時には垂直かと思うほどにみるみる地面が傾いできて、
もうどうにでもなれと思ってしまうこともありました。
いつの間にか他人のランニングマシンに、
乗り移らされたこともあるような気がします。
「わたしって、何のために生きているんだろう……」
もう自分は誰なのか、
誰のランニングマシンを走っているのか、
わからなくなってしまいました。
そして……でも、スイッチには、
絶対に手を触れてはいけないのだと思っていました。
そこに、スイッチはずっとあったのに……
スイッチを、触って、
それを停止まではさせなくても、
ペースを一段階変えるだけで、
よかった。
走るのをやめる必要もありませんでした。
ただ、
誰が誰のランニングマシンを走っているのか、
その速度を決めているのかを、
確認すればよかった。
そうして、息を整えて、
「当たり前」を疑ってみるだけで、
変わった。
残ったものは、
わかりやすい自由でも、解放でもなく、
ほんの少しの、隙間でした。
でもそれは0と1では途方もない違いを生じる、
余白。
その余白さえあれば、
わたしはもう一度、
走る速さを選び直せる。
わたしが、選ぶ。
選べる。
その、最後に残った、
余白こそが、
わたしそのもの
だったのです。












