家の中には、
誰が決めた覚えもない決まりごと
という不可思議なものが、
ときどき、たくさん、存在します。
いつの間にか、そうなっていた。
気づけば、そうなっていた。
誰も「やって」と言っていないのに、
いつの間にか自分がやっている。
やることに、なっている。
そして、やめられない。
決まりごと。
決まり家事。
自分がやらないと、罪悪感が湧いてくる。
やらない自分は、ものすごく悪いことをしているような気がする。
だって私がやらないと、家が回らない。
だって私がやらないと、誰もやらない。
冷蔵庫に飲みものが補充されていること。
タオルやシーツが、使うときには洗われていること。
トイレットペーパーや洗剤が、切れる前に補われていること。
それらはいつから、「当たり前」になったのでしょう。
ひとりで暮らしているならば。
家族がいても、物理的に、動けないならば。
「もう他に道はない
仕方がない
……では、引き受けるか」
「仕方がない、やるか」
そう、腹をきめて、自分でそう決めて、やっていることならば。
わかる。
でも、そうじゃない。
なしくずしに。
たぶん、ほかの誰でも、できるのに。
ものすごく難しいわけでは、決してないのに。
「いつの間にか」傾斜がついて、
自分の方に降りてきてしまったものごと。
自分以外の、誰もやらなくなった家事たち。
その重さに、気づいてしまった。
瑣末なんかではなくて、
押しつぶされそうだった……!
それは、
家事そのもの、が「大変」だったからではなく、
誰も決めていないことを、
波風を立てずに、黙って受け入れてしまえばらくだとばかりに、
自分ひとりが引き受けていたからだったのかもしれません。
「やらないといけない」
「やるのが当たり前」
そう思い込んでいたものの中に、
実は、コミュニケーションをはじめから諦め、
誰の判断も合意もないままのものごとが、
混じってはいなかったでしょうか。
「当たり前」を疑うというのは、
何かを放棄することではありません。
まずは、その正体を、
一度取り出してみることなのです。












